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スーザン・バック=モース『ベンヤミンとパサージュ論 見ることの弁証法』

高井宏子(訳)、勁草書房、2014年。


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書籍目次

まえがき

第一章 時間的根源
第二章 空間の根源

第三章 自然史(博物学)――化石
第四章 神話的歴史――物心
第五章 神話的自然――願望形象
第六章 歴史的自然――廃墟

第七章 これは哲学か
第八章 大衆文化の夢の世界
第九章 唯物論的教育

あとがき 革命的遺産
残像

基本情報

スーザン・バック=モース(Susan Buck-Morss)は政治哲学や美学、メディア論等を専門にしており、本書は1989年に原題『The Dialectics of Seeing: Walter Benjamin and The Arcades Project』(見ることの弁証法 ヴァルター・ベンヤミンとアーケードプロジェクト)として出版されました。

ベンヤミン(1892-1940)の『パサージュ論』とは、1927年頃から取り組まれ、その膨大な数の断片的な資料が蓄積されていくも、ついに完成をみなかった断片集のことです。バック=モースは、本書においてこの『パサージュ論』からベンヤミンの「見ることの弁証法」という哲学的な方法論の構築を試みています*1

概要

本書は三部によって構成されており、第Ⅰ部(第一、二章)では『パサージュ論』の取り組みに至るその思索の根源が検討されています。第Ⅱ部(第三~六章)では『パサージュ論』における「断片的な資料群や歴史的細部の下に、一貫性のある持続的な哲学的構想があるということを示すため」*2、3つの概念「神話、自然、歴史」を4つの理論パターンから検討されます。第Ⅲ部(第七~九章)では『パサージュ論』の構造全体について、十九世紀をベンヤミン自身が生きた歴史的時代につなぐ時間軸において眺めるため、その歴史的座標軸を構築することが目指されます*3。ここでバック=モースが「座標軸」を持ち出したのは、ベンヤミンもまた座標軸を思考法の一つとして用いたためです*4ベンヤミンは「もろもろの哲学概念を、対立しあう観念の座標上の和解し合わない一時的な対立の領域に、視覚的に配置する」*5のです。

弁証法的形象

バック=モースが「見ること」に着目したのは、本書におけるキーワードといえる「弁証法的形象」(dialectical image)の概念に依るところが大きいでしょう。彼女は『パサージュ論』におけるベンヤミンのこだわりを「「真実」の図像的で具体的な表象を示すことであり、歴史上の過去の形象によって哲学的観念が可視化されること」*6にみており、つまりそれはこの「歴史上の過去の形象」が「歴史の連続体から「爆破によってもぎ取られ」、現在において「アクチュアリティ」を与えられ、政治的エネルギーで満たされたモナドである「歴史事象」として、弁証法的に「構成」され」ることでした*7

弁証法的形象」について、「形象」というのは「イメージ」のことなので、「弁証法的イメージ」といった方が理解しやすいかもしれません。バック=モースによれば、この概念は「ベンヤミンの思考においては多重決定されて」*8おり、モンタージュ技法やアレゴリー表現にも密接に結びついています。それは「他のところでは完全に敵対しあいながら、別々に発展していく二つの傾向を一つに融合する」*9立場であり、パサージュにも見出せます。ただし、この弁証法的イメージはその対立を解決に導くのではなく、その「両軸の交差点」に向かいます。では具体的にどのような対立を指しているのでしょうか。バック=モースによる次の議論はその一つとして示唆的です。

『パサージュ論』は、十九世紀に出現したモダニティが、過去と時代遅れのものへのノスタルジーが集団的に表現され、いかにこの神話的根源と有機的自然を想起させたかを繰り返し記録している。しかしベンヤミンは私たちを別の動機の理解へも導く。一方でそれは、神話と「自然の古き伝統的経験の枠において」、技術と「都市の新しい経験を習得しようとする試み」である。他方でそれは、夢の「願望」の歪められた形式であり、それは過去を救出するためではなく、人類が絶えず表現し続けてきたユートピアを求める欲望を救い出すためのものである。*10

ここでは「伝統的経験」と「新しい経験」が対立しています。ベンヤミンは「十九世紀に出現したモダニティ」という「時代遅れのもの」へのノスタルジーの表現によって、いかに「神話的根源と有機的自然」を想起させたかを繰り返し記録したとのことですが、バック=モースはここにベンヤミンによる「伝統的経験」への懐古に対する批判的な眼差しをみており、むしろ「伝統的経験」という枠内において「新しい経験」に「厳密な注意を払うことによって、はじめてその根源-形象が再活性化される」としています。そこでは「人類が絶えず表現し続けてきたユートピアを求める欲望」が、「抑圧されながら同時に救い出され」ます*11。この「根源-形象」こそが「弁証法的形象」といえるでしょう。

カバラ思想

また、同様にしてバック=モースは、ベンヤミンによる「史的唯物論の名で神学的解釈とマルクス主義の解釈を融合しようとする試み」*12にもこの「弁証法的形象」をみています。この「神学的解釈」というのはショーレムカバラ思想研究に影響を受けており、ベンヤミンはこのカバラ思想の哲学的機能をマルクス主義的政治性につないでいったといえます。カバラというのはユダヤ教におけるメシア論等を伴う神秘主義思想のことです。バック=モースは「神学のほとんどすべてについて言える」と前置きして、カバラを「聖なるテクストを読む解釈方法」としています。

〔聖なるテクスト〕の読み方は、神秘主義として、権威ある意図という意味でのテクスト解釈の歴史学的アプローチは拒み、書かれた時点では知られなかった隠された意味を求めてテクストを読むのだ。(中略)過去のテクストがなければ、現在の現実の真実を解釈することはできないのだが、この現実が、このテクストの読み方を根本的に変えるのである。(中略)つまり、カバラは過去から別れるために過去を尊ぶのだ。*13

カバラは書かれたテクストを保存するためにというよりも、それを変容するために読むということです。ここに「弁証法的形象」との関連が窺えます。また、カバラの解釈においては古代のテクストの解読のための「対象の消失」がないことにバック=モースは注目しています。つまり、「現在の物理的指示対象がなければ、古代のテクストは解読不能」なのです*14。このような唯物的な歴史観マルクス主義にも共通するところでしょう。したがって、ベンヤミンカバラの基本的前提をその哲学的解釈様式として用いたのは、「パサージュ論の企てがマルクス主義であるにもかかわらずそうしたというのではなく、マルクス主義であるからこそそうした」*15のだといえます。

まだまだ書き足りないですが、以上がざっくりとしたバック=モースによる『パサージュ論』読解の要点です。最後に、ポストモダンにおける思想の先駆としてベンヤミンを位置づける議論に対して、バック=モースはこれを批判的に検討しています。

ポストモダン批判

解釈学的方法としてのディコンストラクションは、「固定点」としての過去を否定し、現在を強調的に解釈の場に導き、反イデオロギー的でありながら同時に政治的にラディカルであると主張している。しかし思考を捉える革命的可能性の瞬間としての現在という形象が存在しないため、ディコンストラクションは意味の継続的不安定さとして経験されるものを静止させることができない。(中略)

それに対して、ベンヤミン弁証法的形象は美学的でも恣意的でもない。彼は歴史的「パースペクティブ」を、現在を作った過去の焦点として、つまり過去の消滅点という革命的な「現在の時」として理解している。*16

ここで「革命」といわれるのは、史的唯物論者によって成し遂げられる「歴史的記述における「コペルニクス的転換/革命」」*17を指しているといえます。そして、「その目標は「現在を批判的位置に置く」あの過去の抑圧された要素(実現された野蛮と実現されなかった夢)を意識上にのせること」*18にあります。弁証法的形象においては、この革命的可能性の現在こそが「歴史の断片にとっての集合の北極星の役割を果たす」*19のです。

感想

いうまでもありませんが、ベンヤミンの『パサージュ論』における思想の断片は多岐に渡って書かれていますので、あらゆる方面から読み込むことができるでしょう。本書ではその思想の広がりにおいて共通したベンヤミンの方法論を構築することがなされていたといえます。バック=モースのこの卓越した理論構築は、『パサージュ論』を理解するうえで間違いなく重要な参照点となることと思います。ベンヤミン読者に、ぜひとも一度は読まれるべき本です。

*1:伊藤節による書評(『ヴァージニア・ウルフ研究』2014年、31巻、117-120頁)も参考になります。

*2:68頁。

*3:266頁。

*4:263頁。

*5:260頁。

*6:65頁。

*7:275頁。

*8:80頁。

*9:156頁。

*10:179頁。

*11:180頁。

*12:307頁。このような神学はアドルノによって「否定の神学」と表現されています。

*13:290頁。

*14:290頁。

*15:288頁。

*16:425頁。

*17:424頁。

*18:同上。

*19:同上。