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今井康雄『ヴァルター・ベンヤミンの教育思想 メディアのなかの教育』

世織書房、1998年

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書籍目次

プロローグ

第1章 新教育の地平
第2章 若きベンヤミンの思想形成
第3章 言語・経験・メディア
第4章 メディアと教育
第5章 教育理論の構築
第6章 「経験の貧困」と教育理論
第7章 マスメディアと教育
第8章 教育理論の時間的次元

エピローグ

基本情報

本書は1994年に著者によって提出し受理された博士論文が元になっており、ベンヤミンの残した様々なテキストから出発してその教育思想の核心に迫ることが目指されています。

概要

第1章では、後の議論でベンヤミンが解体していくことになる「常識的な教育観」を整理するため、「教育について自明化した観念」が検討されます。第2章ではベンヤミンがその「教育観」からいかに離脱してきたか、「ドイツ新教育の代表的な実践家・理論家であるグスタフ・ヴィネケンとの関係」*1に紐づけて議論されます。

第3章ではこの離脱の過程におけるキーワードでもある「メディア」の概念が、ベンヤミンの思想的地平の上で「いかなる位置と意味を持つに至ったか」*2が示され、続く第4章では、そのメディアに関連して子どもの遊びやおもちゃに関するベンヤミンのエッセイを対象にした議論がなされます。第5章では、ベンヤミンによる「非-新教育的な基本構造」が2つの方向で具体化されます。つまり、「マスメディアやテクノロジーといった現代的条件に、ベンヤミンのメディア概念がいかに対応したのか」*3、また「子供の世界に関する考察にとどまらぬ積極的な教育理論を、ベンヤミンはどのように構想したのか」*4です。これによって、「メディア的な経験と表象の論理による現代的条件との取組み」*5という枠組みの中でその教育理論がひとまとまりに再構成されます。

第6章では、この再構成されたベンヤミンの教育理論について、ジョン・デューイの理論との比較からその内部構造が詳細に検討されます。以上に明らかにされたベンヤミンの教育理論の構造を下敷きに、第7章ではマスメディアと教育との関係におけるベンヤミンテオドール・アドルノの論争が再解釈され、第8章では「子供」や「発達」に関するベンヤミンの観念が考察されます。

メディアとしての言語

本書においてハイライトともいえる刺激的な箇所のひとつは、ベンヤミンの教育思想へと展開に至るメディア論の検討ではないでしょうか。

ベンヤミンは論文「言語一般および人間の言語について」(以下、「「言語一般」論文」と表記。)において、「言語」を「メディア」とする議論を展開します。今井はここでまず、ベンヤミンがいう言語の「精神的性質」と「言語的本質」に着目します*6

言語の「精神的本質」というのは言葉の「意味」のことです。この「精神的本質」について、それは「言語〔的本質〕の中で自己を伝達」しますが、「言語〔的本質〕を通して伝達されるのではない」ということがここでは強調されています。また、ベンヤミンは「精神的本質」と「言語的本質」の区別にも注意を払っています*7。今井によれば、ベンヤミンはこの「精神的本質と言語的本質との間の差異と同一性」*8について、言語を「メディア」として捉えることによってそれを同時に表現することを可能にしています。

言語が純粋なメディアである以上、精神的本質は「言語のなかで」伝達されるのであり言語から区別されえない。しかし同時に、言語が「表現」であり伝達のメディアである以上、言語は、言語的本質や精神的本質にとっての外部へと向けられているはずであり、精神的本質から区別されねばならない。メディアの概念は、内容と形式、個別と一般との、(シンボル的一体性ではなく)アレゴリー的な、差異を含んだ同一性を表現するものであったと考えられる。*9

では、アレゴリー的な表現とはどういうことでしょうか。今井はここでベンヤミンの「事物の言語」の概念について検討しています。

事物に名づけること

ベンヤミンは「事物の秩序」、つまり「事物の精神的本質、あるいは意味」が言語的に分節されていると考え、これを「人間の言語」以前に存在する「事物の言語」としました*10

一方、人間の言語の特質として、ベンヤミンは「名前を持ち、音声を持つ点」を挙げ*11、「人間の言語は事物を名づけることができる」*12としています。この名づけることを介した人間と事物の言語の関係に関して、ベンヤミン創造神話に依拠しながら人間に「認識という地位を付与」します。

人間は、神が事物の秩序を創造した、その同じ言語によって事物を命名するわけだ。(中略)命名は、したがって事物の秩序との対応関係を、つまり認識という地位を獲得するのである。*13

そして、名前はメディアとしての人間の言語の中で「絶対的に自己を伝達する」と同時に、「事物の言語との必然的関係を」含むことになります*14。言い換えると、名づけた名前が「事物の言語」と対応していれば、「事物の秩序」は人間の言語によって伝達可能になります。名づけることによって「事物の言語」を人間の言語に「翻訳」するということです。

しかしながら、名前と事物の秩序とのこのような照応関係は、「ベンヤミンによれば、現実の人間の言語からはすでに失われてしまっている」ということです。ですから、この「翻訳」の試みは失敗の可能性を孕んでいるのです。ベンヤミンはこの試みを「受胎」とも言い換えていおり*15、このような「言語運動」は「事物の言語と人間の言語の間の差異を伴った連関によって生み出され」ます*16。ここに「差異を含んだ同一性を表現する」アレゴリーとの関連が見て取れます。

アレゴリー表現

「言語一般」論文において示されたメディア的構造について、今井によれば『ドイツ悲劇の根源』の「認識批判的序論」における「理念」は、「言語一般」論文を直接承ける形で「名前」として規定」*17されており、今井は更にこれを参照して説明しています*18

ベンヤミンは「理念」について、その個別的現象に対する関係を「星座の星に対する関係に等しい」*19としており、今井は「個別的な現象は、ある配置の構成要素へと「救出」されることによって、理念を、つまり事物の秩序を、現前させるということに」なると説明しています*20

個別的な現象のなかに理念が表象されるのではない。その逆なのである。理念は「現象の客観的解釈」であり、個々の星がいかなる星座に所属するかは、星座という形相的理念によって、すでに「予定的」(prästabiliert)に決定されいる*21*22

しかし、アレゴリー表現ではこの「理念」に辿り着くことができません。今井は次のように説明します。

アレゴリー表現は、(中略)それ自身としては意味を失った現実をそのまま直接的に意味の世界に組み込んでいるという意味で、理念の表現と同様のメディア的構造を示すが、こうした構造の構築が恣意的になされているがゆえに、永遠に理念の表現に辿り着くことはない。決して埋まられぬこの距離がバロック悲劇の「悲しみ」の根源なのだ。と同時に、この「悲しみ」を通して、(中略)アレゴリーはかすかに理念を指し示すことができるのである。*23

したがって、「現象を恣意的に意味の世界に引き上げようとするアレゴリー」は「名前に関わる理念」を指し示すことはできても、直接に経験することはできないのです*24

他方で、今井によれば、ベンヤミンは「事物の言語が名前となって浮上」するような経験を描き出しています。ここで参照されるのは論文「来たるべき哲学のプログラム」(以下、「プログラム」論文と表記。)です。

経験のメディアとしての言語

「プログラム」論文では、今井によれば、ベンヤミンはカント的な認識論への批判を通して「認識と結びつき意味づけられた経験」の概念の構築を目指しています*25。ではベンヤミンは既成の認識論における何を批判するのでしょう。

今井によれば、それは「「主観と客観の関連として認識を把握する態度」そのもの」*26であるといいます。ベンヤミンはカントにおいて「主観の側の判断形式を表現しているカテゴリー表を「秩序についての何らかの教理(Lehre)」へと変換すること」を提案します。つまり、認識は主観による能力ではなく、「主観と客観の<間>の領域に想定されたこの「秩序についての一般的教理」が、認識と経験を決定づける」のであり、したがって認識と経験は主観と客観の中立の領域に見出されることになります*27。そして、この「中立の領域」を、「ベンヤミンは言語の領域として構想」しました。「言語的に分節された秩序が認識を決定づけることに」なります*28。したがって、事物の言語はこの「中立の領域」において人間の言語によって認識を決定づけるといえるでしょう。

今井はここで、「プログラム」論文の「準備研究」ともいわれるベンヤミンの「知覚について」と題された断片における「画家の比喩」を参照し、経験と認識の関係についても検討します。

そこで今井は、ベンヤミンの比喩における「画家」と「風景」の「秩序の差異」が強調されていることを指摘しています*29。つまり風景は画家とは異なる秩序(事物の言語)に属しており、それは画家によって主観的に認識されるのではなく、「画家の芸術的連関〔認識連関〕」として浮上するのです。

今井は「ちょうど星座が星を配置し意味づけるように、認識が個々の経験を配置し意味づけるという関係が認識と経験の間に成り立って」いるといいます*30。つまり、景観は個別的な経験として認識において配置されることになります。

メディアのなかの教育

さて、以上を端的にまとめると、ベンヤミンのメディアとしての言語について今井は次のようにまとめます。

メディアとしての言語は形式的には自己同一的な構造(「自己自身のなかで自己を伝達する」)を持つ。しかしこの構造は、実際には異質なものの間に伸び広げられ、異質な物(名前と事物、人間の言語と事物の言語)を、その差異を保存したまま直接結びつけるのであった。

ベンヤミンはメディア論の議論を最初に「創造神話」に依拠して開始しましたが、今井はこのメディアの構造を「ミメーシス的能力」に支えられたベンヤミンの後期の議論につないだ議論を展開します。その道程で登場するのがおもちゃ、絵本といったメディアです。そして、本書のサブタイトルにおいて明らかにメディアとしての教育が意識されているように、第4章以降はベンヤミンのメディア論を解きほぐす議論がベンヤミンの教育思想の構築につながっていきます。

感想

教育を専攻としているか否かに関わらず、本書は読者にとって非常に刺激的な議論が展開されていると思います。この後に続くおもちゃにおけるベンヤミンの分析に焦点を当てた議論もまた、大変に興味深い内容です。ベンヤミンを愛する読者はぜひご一読ください。

*1:10頁。

*2:同上。

*3:同上。

*4:10~11頁。

*5:11頁。

*6:64~65頁。

*7:同上。

*8:66頁。

*9:強調は今井による。66頁。

*10:66~67頁。

*11:68頁。

*12:同上。

*13:68頁。

*14:69頁。人間は名づけることによって自己の精神的本質を表現すると同時に、その名前は「事物の言語的本質」に対応しなければならないということです。これについては70頁、および第3章脚注15を参照。

*15:71頁。つまり、「人間の言語は、事物の言語を「受胎」すべく繰り返し試みるしかない」のです。これについては72頁を参照。

*16:72頁。

*17:76頁。

*18:ベンヤミンによれば、「理念は言語的なもの」なのである」。これについては76頁参照。

*19:今井による引用。73頁。

*20:ベンヤミンはこの「理念と個別的現象」との関係を「「表象」の関係」として捉えています。これについては74頁参照。

*21:原文ママ

*22:74頁。

*23:77頁。

*24:同上。

*25:80頁。

*26:81頁。

*27:81~82頁。

*28:82頁。

*29:83~84頁。

*30:84頁。