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若林奮の雰囲気(「雰囲気のかたち」展@うらわ美術館)

「雰囲気のかたち」展(うらわ美術館、2022年11月15日~2023年1月15日)

雰囲気は視覚的でもなければ聴覚的でも嗅覚的でも触覚的でもなく、おそらく感覚器官を通じて具体的に知覚する対象ではありません。それは明確にというよりも、何となく漂っているように感じられます。それにも関わらず、私たちはこの雰囲気によってしばしば感情を揺さぶられ、雰囲気によって意欲を起こさせられ、雰囲気を欲望し、あるいはそれを意図的に作りだします。

若林奮の作品における主題のひとつは雰囲気です。それらの作品を通して、若林が示した雰囲気の正体を見通してみたいと思います。

《雰囲気》(1980-2000年)

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若林奮は1936年に東京に生まれ*1、1960年代から2000年代初めまで戦後日本を代表する彫刻家として活躍しました*2。1980年から20年にわたって加工された作品が《雰囲気》です。木で作られ白い布が巻かれた人と犬が向かい合い、その間には両者の視線を遮るように長方形の紙の囲いが立っていて、その囲いの両面には無数の点や線が描き込まれています。

この作品のタイトルが「雰囲気」であることからも、この人と犬の間に立てられた紙の囲いが雰囲気とされているという見当がつきます。人と犬の身体には白い布が巻かれ、頭部にのみ着色されています。また、犬の脚と人の腕から先は作られておらず、両者の身体よりも頭部に重点が置かれているように見えます。ですが、その顔面も詳細には作られてはおらず、両者が正面をみているということしか分かりません。つまり、向かい合わせになった犬と人はその視線の方向を明示するためにそこに立っているようです。そして、両者の目線は正面を向いており、少なくとも顔の方角からは両者の目が合っているようには見えません。人も犬も、向かい合う相手を見ているのではなく、その両者のあいだを隔てる長方形の囲い、つまり雰囲気を見ています。

この雰囲気は長方形という幾何学的な形状をしています。なぜでしょうか。山田志麻子 *3は1997年11月にドイツのマンハイム市立美術館等で開催された『ISAMU WAKABAYASHI』展のカタログにおける若林の原稿を参照して、この四角い空間を「広がりを持った振動尺」として解釈しています。「振動尺」というのは若林の独自の概念で、常に変化すると考えた空間や距離を測る「物差し」として導入されました。雰囲気がその振動尺であるなら、幾何学的な形状をしているのはその伸縮する空間を測るためだったのではないでしょうか。

では、この雰囲気の表面に描かれた無数の点と線は何でしょうか。その一部、特に人の頭部付近の角から長辺の中央に向かう点は、明らかにパターン、あるいはリズムをもって描き入れられているように見えます。雰囲気の空間の内側は点や線で埋め尽くされていて、山田はこれを「木々や、振動する大気の粒子とともに成長する草ともとれる無数の短い線」と表現しています*4。ところで、若林はドイツの美術批評家であるイルムトラウト・シャールシュミット=リヒターが企画していたドイツはハンブルガー・バーンホフ現代美術館における若林の個展に関する構想の中で、「振動尺」の概念を次のように説明しています*5

私は、彫刻(作品)を制作するときの手掛かりとして、自然の見方に「振動尺」という概念を導入している。この概念は、一九七七年頃から考え始めたものであり、自分自身と今、自分が相対している人間や植物、犬等との関係を空間的に考察したものであった。(中略)最近はこれに時間を加えて、例えばある植物と自分と空間と時間の関係において明確にして作品とする。或いは作品として成立させながら自然と自分の関係を理解するものである。*6

つまり、「振動尺」は自分自身と相対する生き物との関係を表現しています。このことから作品における人は若林自身であると考えるのが自然ですが、いずれにせよこの作品において人と犬が見つめるのは両者の間を隔てる関係であることがいえます。双方とも相手を見つめるのではなく、その関係を見つめているということです。

この《雰囲気》は2000年まで若林が手を加え続けていた晩年の作品ですが、これが「時間」を加えてその関係を表現した作品としても解釈できるのだとすれば、雰囲気の外側上方に描かれた連続的な点はやはり時間的なリズム、あるいは空間の振動を描いていると思われます。特に雰囲気の上方にこの点が集中しており、それが人の頭の高さに近いことから、この人は犬に何かを呼びかけているようにも見えます。つまり、音の振動がその空間を揺らしており、その時間的変化が雰囲気の表面に表れているということです。頭部に近い点が正面右上から左下に向けて描かれているように見えるのもまた、この解釈の可能性を示唆しています。

そうすると次のようにも解釈できます。つまりこの人は雰囲気を見ているために犬が見えていない、ということです。そのため犬に呼びかけているのです。ですが、なぜ犬が見えていないのでしょうか。犬を見るということは、その関係を見るということで、犬本体を見るということではない、ということでしょうか。この問いについて、もう一つの若林の作品をみて考えたいと思います。

《犬から出る水蒸気》(1968年)

若林奮《犬から出る水蒸気》

《犬から出る水蒸気》は若林の初期の、鉄を用いた作品です。《雰囲気》同様に犬が題材となっていますが、肝心の犬を、犬を見る人/鑑賞者は見ることができません。その代わりに、「犬の水蒸気」と思しき膨らみが鉄板の下にあり、また鉄板の上にも膨らみが達しています。犬は鉄という素材で外部と遮断されており、《雰囲気》においてそれが紙であったのとは対照的に、その水蒸気には外部との関係を断ち切るような強さが感じられます。北谷正雄は、この作品と同様に鉄で作られ前年に完成した《中に犬、飛び方》という作品の分析において、1974年に『美術手帖』に掲載された若林の彫刻が「周囲とうまく調和するのは危険な事」とする発言に着目し、当時の若林が「彫刻の表面ということに相当意識を払っていた」ことを指摘しています*7。このことからも、若林がその作品の外部と鉄の内部を明確に分けていたことがわかります。

鉄板の下にある膨らみが犬から出る水蒸気だとして、その鉄板は何でしょうか。これは長方形という幾何学的形状をしているということから、《雰囲気》におけるそれと同様に考えれば「振動尺」とみて差し支えないでしょう。《振動尺》の作品群が発表されるのは1970年代ですが、これがその原型だったとすれば、この長方形の鉄板はこの犬の水蒸気を測る物差しとして見ることができます。鉄板の表面には指をついたような跡が残されていますが、若林は「振動尺を用いて、常に一定の距離ではなく、振動したり伸び縮みしたりする距離を、視覚だけではなく触覚とともに測ろうとした」のだと山田が指摘するように*8、この鉄板に残された跡は犬の水蒸気が触覚的に測られていることを示しているといえます。若林の1984年の作品《所有・雰囲気・振動—綿についての記憶》について、山田は次のように説明しています。

1977(昭和52)年頃より、若林は空間や距離を測る物差しとして、振動尺という棒状の彫刻を複数制作した。その距離は触覚によって測られることを示すように、彫刻の手前の断面には若林の左手の指先の跡が5つの点で穿たれている。 *9

このことからも、この鉄板に残る指の跡がこの鉄板を「振動尺」の原型であることを示唆していることは明らかです。そうであれば、鉄板から下に伸びる突起はこの「振動尺」を操作するための取っ手のようにも見えます。そして振動尺そのものは犬から出る水蒸気を測定してその上に向かって膨らんでいるのです。むろん、これを「振動尺」の原型としてみる場合、ここに時間的な関係はまだ捉えられていません。このことから、若林は犬と空間と自分の関係を表現したために、この水蒸気は極めて強固な瞬間として表れているのだと解釈できます。

それではその水蒸気を放出していると思われる犬はなぜ見えないのでしょうか。若林はフランス文学者の前田英樹との対談において、犬について次のように述べています。

犬を動物の一典型として考えるのですが、犬が属する自然は私の属する自然と同じものなのか。別の自然を考えられるかも知れない。自分が含まれる自然に対して、もう少し別の自然です。私は自分の外側に対応して内側を持っている。私が見る犬は、私の外側に居て内側にも居る。そういう自分と自然のありようを検証してみて、そういうものによってできる二つのものの間の境界線を少しずつ確かめてみたいと思っているのです。*10

若林のこの指摘は、外側をみる人の視線と、内側から見る犬の視線を作品において表現しようとしていることを示唆しています。この対談が所収された書籍が出版されたのは2001年ですが、北谷はこのような視点を1967年の作品《中に犬、飛び方》において既にみていて、次のように指摘しています。

「形」に関心を向けていた若林が、この作品の制作においては、外側から見る視点と内側から見る犬の視点というものを意識していたと読み取ることも不可能ではないだろう。 *11

つまり、犬が見えないのは若林が犬自身の視線を取り込もうとするためといえます。というのは、犬からは犬自身の全身をはっきりと捉えることはできないということです。犬から出る水蒸気は、そのような犬の視線を自己のものとして捉えることを試みた初期の若林にとって、内外の間を断絶させる強い表現として表れたのでしょう。

人と犬の雰囲気

以上のことから、若林にとって犬を見ることは、同時に犬として見ることであり、そのために犬本体ではなくその雰囲気や水蒸気が前景化していたのだと解釈できます。同時に、《雰囲気》においては犬からもまた人が見えていないように、犬もまた人として人を見ており、つまり両者はともに雰囲気を見ているということが表現されているのです。雰囲気は若林にとって向う側を見通すことを許さない擦りガラスのように表れるのです。それは人間にとっての自然と犬にとっての自然が同一ではないゆえに生じる隔たりですが、それを理解することで若林は犬との関係を変化させることができ、《犬から出る水蒸気》においては犬からしか出ていなかった水蒸気が、人からも出る雰囲気として《雰囲気》に結実したのだといえます。

若林は次のような文章を残しています。

自分から極めて遠方に、或は非常に接近して、自分自身に接する限界がある。限界に至る不連続な距離は不明である。限界の構造がどの様なものか、自分自身の表面の厚みがどれだけなのか把握しがたいが、線的な空間に距離はあり、その距離の中に自分の作品があると考える。したがって、自分は作品の一方を見るが、他方は未知である。もし樹や犬が未知であれば、それらは自分からもっとも遠いところにあると想像出来る。作品の向う側、自分からもっとも遠い箇所に犬や樹があり、作品の半分を見ているのであれば幸いである。*12

若林はこれらの「雰囲気」を通して、「自分自身に接する限界」の彼方を、つまり犬の見る自分を想像しようとしていたのではないでしょうか。

*1:東京文化財研究所, 2014年10月27日, 「若林奮 日本美術年鑑所載物故者記事」. 参照日: 2023年2月10日, 参照先: 東京文化財研究所: https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/28279.html

*2:山田志麻子, 2022, 「若林奮——距離、振動、雰囲気を形にする」. 市川政憲, 福田尚代, 山田志麻子, 滝口明子(編), 『雰囲気のかたち——見えないもの、形のないもの、そしてここにあるもの』, pp. 97-117, うらわ美術館, 東京新聞、97頁。

*3:同上、111頁。

*4:同上、111頁。

*5:シャールシュミット=リヒターはドイツにおける若林奮の個展を企画し、2003年2月から若林と手紙をやり取りしていましたが、若林は同年10月に逝去しており、個展は実現しませんでした。

*6:酒井忠康, 2008, 『若林奮 犬になった彫刻家』, みすず書房、168頁。

*7:北谷正雄, 2011, 「《振動尺》に至るまでの若林奮」, 『美學美術史論集』, pp. 375-392

*8:山田, 前掲、97頁。

*9:同上、109頁。

*10:若林奮, 前田英樹, 2001, 『対論・彫刻空間——物質と思考』, 書肆山田、96頁。

*11:北谷, 前掲、384頁。

*12:若林奮, 2004, 『I.W——若林奮ノート』, 書肆山田、278頁。