本の庭

本、庭園、観光地、海外ドラマ、映画、アニメ、等のレビュー

三村尚央『記憶と人文学』

小鳥遊書房、2021年。


f:id:anrmcdr:20221115100506j:image

書籍目次

はじめに 記憶の人文学への門をひらく
第一章  写真と記憶、記憶の写真
第二章  記憶と身体
第三章  記憶と場所
第四章  思い出の品々
第五章  忘却と記憶
第六章  記憶を継承するために
おわりに 記憶の人文学の扉の向こうへ

基本情報

三村尚央は広島大学文学研究科にて2005年に博士(文学)を取得し、本書の発刊時点では千葉工業大学工学部教育センター教授を務めています。研究分野は20世紀イギリス小説について、特にE・M・フォースターらの「イギリスらしさ」の系譜と1950年代以降の非英国系作家(サルマン・ラシュディカズオ・イシグロ)の系譜をたどり、英国における「国民性」を探求する一方、近年は記憶研究へと研究対象を拡大しています*1

概要

本書では、「記憶とは何か」という問いを考察することを目的として、記憶と関連付けられることが多い媒体として三村が指摘する「写真」、「身体」、「場所と建築物」、「思い出の品」、「忘却」を各章の主題として、それらに関連した小説や映画の解釈や議論を紹介しながら考察が展開されています。

写真

第一章は「写真」について考察されます。三村はここで写真と記憶に関する議論を概観して、写真が一方では過去の一時点を切り取るという「写実性」を、他方では肉眼では看取出来ない「超現実性」を含むとして、それらが近代的な精神構造のモデルに影響を与えていた可能性を検討しています。

「写実性」として説明されるのは、過去の一瞬を切り取った写真が帯びる「真実らしさ」であり、それは撮影者の「解釈や思考の枠組に規定されているだけでなく、それを観るものがもつ枠組とも共鳴したり、場合によっては変容させたりする介入的な力」*2を備えています。このことは「ある過去について私たちが個別に持つ記憶のイメージにも通じて」います*3

ですが、写真はまた「私たちが思いもよらなかったものを突きつけてくる」*4のであり、その例として挙げられているのは、写真を観るものが感じる「ノスタルジア」です。つまり、写真は観るものの「立場や背景によって、そこから連想されるさまざまな印象が結びつけられる」*5のであり、これが「超現実性」として説明されています。

そして三村が検討するのは、このように写真がもつ「写実性」と「超現実性」が、ヴァルター・ベンヤミンによる「視覚における無意識的なもの」、あるいはジークムント・フロイトによる「不気味なもの」といった近代以降に誕生した概念に影響を与えていた可能性です。

身体

第二章で扱われるのは「身体」です。記憶は脳内の現象であるというだけでなく、その多くの部分を、「それに伴う身体感覚によって支えられてい」ます*6。そのような身体をめぐる記憶について、「暗記のための反復動作や身体の習慣的訓練などに関わる記憶イメージ」*7についてアンリ・ベルクソンが「精神と関わる「純粋記憶」」と区別した「習慣的記憶」と、「私たちの意識的努力による探索の不意を突くように「偶然」に到来する」*8記憶としてマルセル・プルーストが提起する「無意志的記憶」を整理したうえで、三村は「主体を圧倒するほどの力と自律性を備える」*9とする「無意志的記憶」について関心を向けて考察を展開します。

ここで特に重視されるのは、「無意志的記憶」においては、「過去と現在が分かたれることなく一緒になって現れる」ということであり、そのため、たとえばトラウマの治療においては、過去の出来事の記憶を「過去のものにすることが目指されてい」ます*10

その一方で、過去の記憶は身体感覚を契機として想起されるだけでなく、「想起された記憶にもその感覚のイメージがしばしば結びついてい」ます*11。ここでは、身体の一部を突如として失ってしまった人が、それがまだ存在しているかのように錯覚する症状である「幻肢」と、それに伴う「幻肢痛」という事例を扱う伊藤亜紗*12やモーリス・メルロ=ポンティ*13の議論が紹介されています。

三村はこのような事例において、その身体部位の以前の感覚がそのまま残されるのではなく、その身体部位の「「存在の」感覚」が残されることに着目しています。つまり、幻肢の感覚は依然存在していた身体部位の感覚と同一のものではなく、また幻肢は「それぞれ異なる「形」をもっていて、それを「動かす」感覚も伴ってい」ます*14。これは失われる以前の身体の記憶が残されていることに依るのです。

場所と建築物

第三章では「場所と建築物」が扱われます。最初に紹介されるのは、序列化した空間配置によって組み立てられる記憶と建築物の構造的な類似を利用して「人為的に系統立てて練り上げられた「記憶術」」*15についての桑木野幸司*16やアン・ホワイトヘッド*17等の議論です。三村は記憶に関わる小説や映画においても建築物がメタファーとして用いられていることに触れ、これを「記憶術をはじめとする古代から受け継がれてきた記憶と場所をめぐるイメージを、現代的な形でクリアに描き出す叙述」として解釈しています。

続いて、このように階層的な構造を持って表現される「個人の記憶」だけでなく、「個人を超えた記憶が長らく蓄えられてきているかのように感じられる場所」*18について検討がなされます。その場所は過去の歴史アーカイブとしての機能に加え、「しばしばその場所自身が人知を越えた不可思議な力を持つように感じられ」*19ることがあるとされます。

ここで紹介されるのは、「土地の霊(ゲニウス・ロキ)」に関する議論と、均質的な「空間」と個人や共同体において固有の意味を持つ「場所」の対比に関する議論です。「土地の霊」は「その土地自身が長らく蓄積・維持(つまり記憶)してきた何らかの力を意味する」*20として説明されています。また、「空間」と「場所」の対比について、この「空間」が人の経験によって「場所」へと変容することがあり、三村は「このような経験的原理にもとづいて分割される空間」は「記憶術の原理とも親和性が高い」と指摘しています*21

これに加えて、「特定の歴史的な出来事を後世に伝えるための場所」*22として「記憶の場」が紹介されます。三村によれば、「記憶の場」は「訪れる者にそこで起こった出来事の内実を直接体験していないものにも伝えようとする」のですが、「このようなはたらきは画一化された「国家の記憶」へと収斂する危険性を秘めている」のです*23

この「記憶の場」が伝えようとする記憶は共同体において共有される「集合的記憶(collective memory)」であり、これを理論的にまとめたものとして、ここではモーリス・アルヴァックスの研究が紹介されています。それによると、「集合的記憶」は「それが想起される際の思考や観念の枠組に大きく影響されることも含意しており、その再構築性と可塑性こそがいわゆる歴史的記述との大きな違い」*24として説明されています*25

思い出の品

第四章では「思い出の品」が扱われます。思い出の品とは、たとえば観光地で買われる土産物のように、他の人には何の役に立たないものでもそれを所有する人にとっては意味を持つような物を指していて、「その所有者の内的な叙述(ナラティブ)と結びつき、またその他の同様の物品たちとコレクションを形成することで個別的な意味の織物(テクスト)を形成してい」ます*26

三村はここでスーザン・スチュワート*27による記念品の「二重の機能」における議論を紹介しており、それによればスチュワートの議論は「記念品が象徴する生き生きとした過去に対して、現在が比較的味気ないように感じられるだけでなく、両者のあいだでの隔たりを強く感じさせて、言いようのないノスタルジアを喚起することも意味する」*28とされています。また、スチュワートは「こうしたノスタルジアは実際に体験したものであろうとなかろうと、創造と想像力を交えた再構成であることも強調する」*29といいます。

こういった物品に接触する際に、「私たちは、たとえ自分のものではなくても、それらがくぐり抜けてきたであろう「記憶の物語」たちを想像することができる」のです*30。つまり、他者の思い出の品に触れることで「過去を別様に想起するという「記憶の可塑性」を示すだけでなく、それを利用して別の未来を創造する可能性」*31が与えられることになります。このように「物品」が記憶の媒体として別の人に渡って記憶が共有されるきっかけとなることをマリアンヌ・ハーシュは「証言する物品(オブジェクト)」(testimonial object)と呼んでおり、三村はこの「証言する物品」が「そこに記されている情報だけでなく、それをとりまく文化に関わる全体的な物質性(materiality)とともにそれを再現する」*32と指摘します。

そして、三村によると、物品は持ち主を変えていくことでその記憶が変容される可能性がある(「可塑性」)一方で、その以前の持ち主の記憶は自分のものではないにもかかわらず、確かに起こったのだという感覚(「真正性」)を与え、持ち主の記憶として作り替えられていきます*33。そして、三村は村上春樹*34ベンヤミン*35を参照しながら、このような記憶の性質は「「物語」とその伝承を可能にする」*36とし、「記憶にもとづく物語の形成とその語り直しによる伝承は、記憶は「事実と違うことがある」というよりも、記憶とは本来そのようなものであり、むしろ「事実とは異なっている可能性を逃れられない」ということでもある」*37と指摘します。

忘却

第五章では「忘却」について扱われます。ここではフロイト*38による「マジック・メモ」の仕組みを用いた記憶モデル、つまり「真っさらな書き込み面が常に提供されることと、記録したメモの痕跡が残り続けるというそれまで相容れることのなかった二つの機能が同時に達成されている」*39構造に関する議論と、それを扱った石田英敬*40の議論を参照して考察を展開しています。

それによると、「マジック・メモ」において残される痕跡は、その「マジック・メモによる記録のアップデート版とさえいうこともできる」*41iPadによる記憶は、しかし、「どれだけ書いても「痕跡」が残らない」*42ことから、決定的に異なるとされています。iPadによる記憶では、スクリーンショットによって過去の記録を正確に残し、またいつでもそれを呼び出すことができるのです。

そこに蓄えられた過去は、「忘却」に抗うようにして、そのままの形でいつでも再生できる「完全な記憶」であり、保存したものとは違うものが出てくる可能性はほとんどない(中略)。*43

これに対して、フロイトが「マジック・メモ」の仕組みから構想した記憶モデルは、「記憶がそのまま保持されているのではなく、それが想起される現在において、そのつど微妙な差異(ゆらぎ)を含みながら再創造されてい」ます*44。三村はここで、iPadのように完全な記憶を残して呼び出すモデルと、フロイトのマジック・メモのモデルを相互補完的に「新たに自分の「物語」(すなわち主体性)を編み直してゆく可能性」*45を示唆しており、「誰のものでもない自分自身の「記憶の物語」が必要なのだ」*46としています。

記憶の継承

第六章では、以上に考察されてきた記憶の継承が問題とされます。ここではアライダ・アスマン*47を中心に想起と忘却の倫理観に関わる議論が紹介された後、その想起に関する実践として広島市立基町高校の橋本一貫教諭による「次世代と描く原爆の絵」のプロジェクトが紹介されています。

これは原爆を体験していない現代の高校生が被爆者の体験を聞きながら1年をかけて油彩画を仕上げるというプロジェクトで*48、このプロジェクトについて三村は「記録写真や体験の聞き語りではなく、その製作プロセスも含めて第三者とともに絵画として表現することの意義」をみています*49。そこで、被爆女性の話を聞いて描かれた絵のその少女の姿が、「それを描いた女子生徒自身に酷似していた」*50というエピソードを、三村は次のように解釈しています。

被爆者が「地獄のようだった」という光景を鮮明に視覚化するためにコミュニケーションを重ねていった結果、被爆者の記憶へと深く入り込んでいって、それを追体験したのではないだろうか。このことは、(中略)私たちの記憶があいまいで不正確なところも含みながら、過去の痕跡からその都度再構築されるものであるからこそ生じる可能性とも言えるだろう。*51

そして、記憶のこのような性質によってこそ、「対話を重ねてゆくことで、私たち一人ひとりと他者との記憶とか結ばれ、両者の境界があいまいとなって混ざり合い、自分のものであるかのようにそれを引き受けて、継承の物語を紡いでゆく希望にもなる」ということが最後に示唆されます*52

感想

本書における考察をまとめると、不完全な記憶の「可塑性」と「真正性」を軸にして考察が展開されており、それらが対話を通して繰り返し再構築され、「自分のものであるかのように」それが引き受けられることで継承されていくことが示唆されています。著者自身の考察よりは理論や解釈の紹介が目立っている印象を受けましたが、多数の文献に言及されることからむしろ入門書として読みやすいかと思います。

*1:千葉工業大学ホームページ(https://www.lib.it-chiba.ac.jp/cithp/KgApp?resId=S000265、最終閲覧:2022年11月9日)を参照しました。

*2:37-38頁。

*3:38頁。

*4:同上

*5:52頁

*6:67頁。

*7:72頁。

*8:70頁。

*9:74頁。

*10:84頁。

*11:89頁。

*12:『記憶する体』(春秋社、2019年)。

*13:『知覚の現象学』(中島盛夫訳、法政大学出版局、2015年)。

*14:88頁。

*15:94頁。

*16:『記憶術全史』講談社選書メチエ、2018年。

*17:『記憶をめぐる人文学』三村尚央訳、彩流社、2017年。

*18:107頁。

*19:同上。

*20:114頁。

*21:113頁。

*22:114頁。

*23:同上。

*24:117頁。

*25:ここで指摘される「再構築性と可塑性」は、第一章から引き続いて言及されており、三村の集合的記憶に対する解釈が「写真」においても共通しており、また第四章の「思い出の品」にも引き継がれていることがこの後に示されています。

*26:127頁。

*27:S. Stewart, On Longing: Narratives of the Miniature, the Gigantic, the Souvenir, the Collection (Duke UP, 1983) (『憧憬論』、未邦訳).

*28:127頁。

*29:128頁。

*30:136頁。

*31:138頁。

*32:146頁。

*33:148頁。

*34:「物語の善きサイクル」(『雑文集』(新潮社、2011年)所収)。

*35:「物語作者」三宅晶子訳(『ベンヤミン・コレクション2』浅井健二郎編訳(ちくま学芸文庫、1996年)所収)。

*36:149頁。

*37:151頁。

*38:「「不思議のメモ帳」についての覚え書き」太寿堂真訳(『フロイト全集18』(岩波書店、2007年)所収)。

*39:166頁。

*40:『新記号論東浩紀との共著、ゲンロン、2019年。

*41:168頁。

*42:同上。

*43:169頁。

*44:同上。

*45:174頁。

*46:178頁。

*47:『想起の文化』安川晴基訳、岩波書店、2019年。

*48:208-212頁。

*49:212頁。

*50:同上。

*51:同上。

*52:213頁。