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ティモシー・モートン『自然なきエコロジー 来たるべき環境哲学に向けて』

篠原雅武(訳)、以文社、2018年。


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書籍目次

序論 エコロジカルな批評の理論に向かって
第一章 環境の言語の技法――「私にはそれが自然でないとは信じられない!」
第二章 ロマン主義と環境的な主体
第三章 自然なきエコロジーを想像する

基本情報

ティモシー・モートンは、オブジェクト指向哲学と呼ばれる思想運動の旗手の一人です。本書は2007年に出版された"Ecology without Nature" (Harvard University Press, 2007)の邦訳で、「エコロジー」という概念から「自然」を取り除き、新たなエコロジー概念を構築することが目指されています。

概要

序論ではモートンが主張するエコロジー概念を捉える際の「問題状況が素描」されます*1モートンは本書の主張が「三つの段階で発展する」ことを指摘しており、すなわち「記述すること(describing)、文脈化すること(contextualizing)、政治化すること(politicizing)」*2で、本書は第一章以降概ねこの段階に沿って議論が展開されます。第一章では「記述すること」として、環境芸術について探求され、モートンによるエコロジー概念について体系化が試みられます。続く第二章では「文脈化すること」として、このエコロジー概念における歴史的文脈に焦点が当てられます。第三章では「政治化すること」として、「抽象的な議論から、社会的かつ政治的な動物としての私たちの環境芸術および文化への関係がなんであるかを精確に規定するための一連の試み」*3へと議論が展開されます。そこでは「感覚的で確定されない次元においてエコロジー的なものを見いだすことが試みられ」*4ます。

エコミメーシス

本書におけるキーワードのひとつは「エコミメーシス」と呼ばれる概念です。これは「ネイチャーライディング」を「本書が好む呼び名」に言い換えたものとしても書かれていますが*5モートンが本書で描き出す修辞の形態のことです。「エコ」と「ミメーシス」に分解すればより分かりやすいかもしれませんが、端的にいえば、書き手が書くときにおける環境(エコ)を書く(ミメーシス=模倣する)ことといえます。ただし、モートンはミメーシスの意味するところについて、「弱い表象や模倣というよりはむしろ、これは強力で魔法的な形態であり、たんなるコピーではなくて魅力的な幻想である」としています*6。どういうことでしょうか。

モートンは、書き手が「私が書いているとき」と添えて周囲の状況を書き出すことについて、次のように説明します。

「私が書いているとき」という決まり文句は任意のもので、この修辞を語る様式にはほとんどいつも暗黙に含まれているが、そこには、決定的にエコロジカルな用法がある。だが、「私が書いているとき」という所作は、それを含む総称的な地平や修辞的な戦略をほのめかすものから完全に抜け出そうと試みるとき、逃れることの難しいの*7重力場へと入り込むことになる。*8

ですが、モートンによればエコミメーシスは「多くの場合、あきらかにテクストの「外部」に」あるようです*9。このように「書くことがまさしく起こるところであることと今とを、再現しようとする」ことは「強いエコミメーシス」とされていますが、「それは、「なんらかの状況のなかにいる」という修辞の、裏返しの形式」であるようです*10。あるいは、次のようにも説明されます。

エコミメーシスは圧点である。自然世界についての考えの中にあるだけでなくその周囲にもある、信念と実践と過程の広範で複雑なイデオロギーのネットワークを結晶化させる圧点である。*11

つまり、「エコミメーシス」は単に書き手の環境について書くことだけでなく、その書かれたテクストの外部にある「信念と実践と過程の広範で複雑なイデオロギーのネットワーク」を示します。だからこそ、このミメーシスは「魅力的な幻想」といえるのでしょう。

アンビエント詩学

モートンは、この「エコミメーシス」には「アンビエンスの詩学が含まれている」*12と指摘します。アンビエンスというのは、モートンによれば、「周囲のもの、とりまくもの、世界の感覚を意味して」おり、「きわめて特殊な表現を生じさせるが、それはエコミメーシスによって演出された自然である」と説明されています*13

そして、モートンはこのアンビエント詩学の特徴として、6個の主要な要素を提起しています。つまり、「演出(rendering)、中間(medial)、音質(timbral)、風音(Aeolion)、トーン、そしてもっとも根本的なのが再-刻印(re-mark)」*14です。

演出はアンビエント詩学の結果であり、その完成である。トーンは、物性のある装飾のことである。中間、風音、そして音質は、技術的であるか「効率的な」過程であり、効果を意味している。*15

では、この「再-刻印」とは何でしょうか。「背景と前景を分離する裂け目」を産出する「装置」として芸術を分析したデリダに議論に依拠しながら、モートンはこれを次のように説明します。

再-刻印はこだまのようなものである。それは(意味のある)印が現前しているところにおいて私たちが存在していることを意識化させてくれる、特別な印(あるいは一連の印)である。*16

あるいは、次のようにもいいます。

主観的なものと客観的なものは、互いに髪一重*17で(もしもそのようなものがあるとしたら)隔てられている(中略)。再-刻印の幻影的な戯れは分化されていない基底からそれらの差異を確立する。*18

モートンはここで主観と客観の区別を生じさせる契機として「再-刻印」の議論を展開していますが、それはどうやら「非連続的」で偶然的な出来事であるようです*19

感想

以上、本書の読解のカギとなる2つの概念をざっとまとめました。アンビエント詩学について、その他の要素においても刺激的な議論が展開されています。本書は、さらにこれらの概念を文脈化し、政治化させて展開されます。

全体通して内容はやや重量感がありますが、モートンの提起する「ダーク・エコロジー」に向かう議論はとても興味深く読みました。これがマルクス唯物論への更なる接近によってどの様に広がるのか、この後の展開が楽しみです。

*1:450頁、訳者あとがきより。

*2:6頁。

*3:9頁。

*4:453頁、訳者あとがきより。

*5:17頁。なお、104頁には次のようにあります。「「エコミメーシス」は、「ネイチャーライティング」のおおよそのギリシア語訳である」。

*6:104~105頁。

*7:原文ママ

*8:59~60頁。

*9:61頁。

*10:64頁。なお、「弱いエコミメーシス」について、65頁で次のように説明されます。それは、「書くことで環境が再現されるときには、いつも作用する」。

*11:65頁。なお、ここに続く一文が本邦訳書においては抜け落ちていますが、モートンはこれに続けて"It is extraordinarily common, both in nature writing and in ecological criticism.(「それはネイチャーライティングでもエコロジカルな批評でも、非常によく見られることである」(引用者訳))"と記述しています。原著p.33。

*12:66頁。

*13:66~67頁。

*14:67頁。

*15:同上。

*16:94~95頁。

*17:原文ママ

*18:95頁。

*19:96~97頁。