本の庭

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沖縄01

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深夜1時、沖縄は那覇の辻という街に辿り着きました。

 

辻の街には風俗店やラブホテルが立ち並び、街中には通りすがりの男たちに声をかけて何かを話す男や、その脇には椅子に座って何かを待っている女がいます。

 

そして街区の端にはタクシーが並び、今か今かと出発を待っています。

 

路上に立つ男は客を探し女はホテルで客の相手をし、タクシーはホテルから出て来た客を乗せている様に見えます。

 

この街には深夜に回る経済があります。

 

通り過ぎる男たちに声をかけて女を売りつける男も、自分の身体を売ろうとする女も、そしてそういった状況をさらに利用しようとするタクシー運転手も、私にはかなりドラマティックに思えました。

 

それはニュースやドラマに出てくるワンシーンを見ている様な気分で、現実にそこにあるのにそこにいないような縁遠さがありました。

 

そんな感覚になると、関わりたくないけど気になってしまいます。

 

この縁遠さ、なんというか妙な感覚でした。

 

そんな感覚でいたあの場で、まったくそのただ中で生きている彼ら彼女らとは分かり合えないだろうなという気がしましたし、私にとってはあの場所は縁遠いからこそ好奇心の対象でした。

 

しかし、分かり合えないということから始めてみることが大切なのだろうと思います。

 

分かり合えるかもしれないからではなく、分かり合えないから分かろうとするのだろう、とそんなことを考えました。

 

さて、沖縄観光に行ってきました。

 

色々と綿密に計画を立ててきたのですが、出発前日の早朝に飛行機会社から突然、搭乗する予定の飛行機の欠航の連絡が入りました。

 

機材繰りの関係で運行が不可能になったそうです。

 

この土壇場キャンセルにはさすがに驚きましたが、当初より1万円ほど高い、前日出発の便を予約して、前日の夕方に沖縄に向かいました。

 

そして無事沖縄に到着した、というところまでは良かったんですが、予定の前日に到着した上に22時近くて宿泊場所を予約しているわけでもありませんでした。

 

止む無く、漫画喫茶か24時間営業のファミレスを目指して那覇市内に向かったのでした。

 

その道中に通り抜けたのが、この辻という街でした。

 

この辻という街、戦前は遊郭として有名だったそうです。

 

琉球王朝時代から辻の南側にある那覇ふ頭は港町として栄え、そのふ頭周辺の中心街から少し裏側に入った辻の街にはこの琉球時代から太平洋戦争前まで遊郭が広がっていました。

 

戦火によって街は一度消失してしまったのですが、その後も米軍兵士を相手にする性産業が栄え、現在においてもまだ残っているとのことでした。

 

一度断絶した歴史が尚も継続されるというところに、人が作る文化が土地に浸み込んでしまっているのではないかと感じてしまいます。

 

ところで、沖縄で風俗や援助交際の経験がある女性らを対象に調査を行った結果をまとめた上間陽子著『裸足で逃げる』を読みました。

 

沖縄の現実の一面を伝える文章には衝撃を受け、印象的だった部分は数多いですが、その内の一つに、援助交際の経験があった女性への聞き取り調査で、彼女が自身のその経験をネガティブに捉えていることを吐露している記述がありました。

 

その経験は誰にも話せず、今後付き合いを持つ男性にも伝えないだろう、と女性は話していました。

 

彼女はその不貞さを隠して生きていかなくてはならないのでしょうか。

 

最近、フェミニズムに関する議論で、女性の不貞さを肯定する意見をよく目にします。

 

女性らしさや身体の露出を排するなど貞淑さを押し出すのではなく、むしろ不貞さを曝すことで男性による性的対象性から脱するというのは、これまでにもウーマンリブの運動においても見られた戦略でした。

 

また、これは不貞さが男性には許されている様な風潮への反発とも考えられます。

 

たとえば、コンビニから成人誌が撤去される報道に対してフェミニストである柴田英里氏は、男性向けの成人誌だけでなく、女性向けや同性愛者向けの成人誌を置けば良いと指摘していました。

 

不貞さが公共の場に露出しているということは日本的な文化であり、男性の不貞さをわざわざ公共の場から排除するのではなく、むしろ女性や同性愛者の不貞さを同様に曝せばいい、ということです。

 

なるほど、確かに不貞さは必ずしもネガティブに捉えられるべきではなさそうです。

 

ですが、自分のパートナーが不貞な経験をしていたと知った場合、そのことを受け入れて付き合えるかといわれると、私はたぶんその事実に無関係にしか向き合えません。

 

というのはつまり、その不貞さが分からない、ともいえます。

 

でも、分かり合えないことから出発すれば、分かろうとすることはできるのかもしれません。

 

私たちは誰とも分かり合えません。

 

だから、分かろうとするのでしょう。

 

不貞さは隠してもいいし、隠さなくても良い。

 

その不貞さは、誰とも分かり合えないのです。

 

沖縄は、島全体は過剰に観光地化する一方で、侵略的な統治の歴史を背景にした米軍基地に関わる様々な問題に向き合わなければならないという複雑な状況にあります。

 

2月末には辺野古移設を問う県民投票があり、複数の市町村議会の意向を考慮して「賛成」「反対」「どちらでもない」という三択が用意されることは物議をかもしましたが、それだけ複雑な状況であるということでもあります。

 

本土の人間というこちら側で、沖縄県民と完全には分かり合えないという関係性のうちで、私たち観光客は沖縄の何かを受け止めることができるでしょうか。

 

観光客という役に立たない不能な主体になって、この沖縄を巡りました。