広島02
厳島神社の大鳥居は、午前中の干潮時にはこんな姿をしています。
2018年末に旅行した広島の2日目は宮島に行ったのですが、現地到着したのが午前中だったもので、鳥居はまだまだ乾いていました。
普段は水に浮いた鳥居しか見ないので、こんな光景に出くわすとは、と少しテンションが上がりました。
ですが、満潮になるのは15時くらいで、むしろ半日は厳島神社は水上に浮かばないと言うことになります。
すると、お得感が少し失せました。というか、水に浮いた方が見たいと思いました。
観光とは、見かたによってこうもテンションが変わるものです。
せっかく来たので水に浮く鳥居を見ようと思い、13時過ぎまで時間をつぶすことにしました。
ところで、この旅行のテーマは「食べ飲み尽くしの旅」としていました。
ということで、広島の名物は事前にリサーチをしていたのです。
とはいっても、広島の名物の食べ物は(インターネットで見る限りは)あまり多くなく、一般的に知られているものでした。
ということで、とりあえず焼き牡蠣を食べに行きました。
宮島と言えば、焼き牡蠣。
入口の脇にテイクアウト用の窓口が設置してあるお店が多く、通りは少し歩くと焼き牡蠣の香りがしてきます。
いくつか焼き牡蠣のお店を見て回ってから、値段の安いところに入って注文しました。
少ししてから、焼き牡蠣にレモンが添えられて出て来ました。
アツアツの焼き牡蠣にレモンを絞って、口に運びます。
塩味もあって、汁まで合わせてとてもおいしいです。
焼き牡蠣、いいですね。
ちなみに、牡蠣には亜鉛が含まれていますね。
最近では、新型栄養失調といって、特定の栄養素が欠落した場合にこの症状を発症する人がいるようです。
つまり、この亜鉛はカルシウム吸収を助ける大切な栄養素ということです。
焼き牡蠣を満喫してから、今度はあなご飯のお店に向かいました。
これも宮島の食の王道です。
「和田」という、ちょっといいお店に直接予約しました。
年末ということもあってか、店は大混雑するという話を聞き、早めに行って予約したのです。
想定通り、11時の開店に合わせて店の周辺は混雑しましたが、予約した順番に案内され、割とすぐに入れました。
店内はメニューはあなご飯一品しかないようで、テーブルに案内されてしばらくしてから、いよいよお待ちかねのあなご飯が運ばれてきました。
ですが、これまた実際食べてみると、期待ほどの感動はありませんでした。
少し冷めているし、タレが甘すぎました。
宮島のあなご飯といえば、こういうものなのでしょうか。
1日目に食べた尾道ラーメンといい、観光地の食べ物は物足りなさが何だか引っかかります。
食べ終わったものの、少し物足りなさが残ったまま、会計を済ませて店を出ました。
それからまたうろうろしていると、宮島の地ビールのポスターを見つけました。
しかし年末の広島はとても寒く、ビールを買って海沿いの石垣に腰を掛けて飲んでいたのですが、長居はとても出来ませんでした。
そして、飲み終わったビールの缶ゴミを捨てようと、またうろうろとゴミ箱を探していたのですが、この島にはまったくゴミ箱が見当たりません。
結局フェリー乗り場まで戻る破目になりました。
フェリー乗り場でごみを捨てた頃にはお昼過ぎになり、鳥居も水に浮くくらい潮が満ちて来たので、ようやく厳島神社を参拝しました。
お昼過ぎ頃ではまだ厳島神社の方まで水は入って来ていません。
ですが、厳島神社には鏡の池といって、潮が満ちていては見れないスポットがあります。
手鏡の様な水溜りで、潮が引いたときに残る海水の水溜りです。
これは潮が引いた時にしか見れないのです。
私は宮島に来たのは2度目で、以前来た時には厳島神社もまるごと水に浮いていたのでした。
ということは、水上の厳島神社も手鏡のあるそれも、また水上の大鳥居と地上のそれも、一通り拝むことができました。
これはとても満足でした。観光とは、こういうものなんだろうと思います。
一通り歩いて、三度目のフェリー乗り場へ。
朝に到着してから半日を、このフェリー乗り場から厳島神社へ向かう途上の商店街で過ごしたので、宮島観光は充分満喫できたのではないかと思います。
島を出てからは広島市内へ。
この日は夕飯のお店を予約していたのですが、それまでの時間で市内散策をすることにしました。
ところで、広島市といえば市内を路面電車が走っているのですが、この路線の一つが市内から宮島へのフェリー乗り場がある宮島口までつながっているので、この日の朝もこの路面電車を利用したのでした。
ちなみに朝は路面電車に乗ってから車内の案内を見ていて知ったのですが、この路面電車は1日チケットがかなりお得です。
宮島口からも路面電車に乗って、市内中心部まで移動しました。
大体40分ほどかかる電車に揺られて、少し眠たくなってしまいましたが、目的の駅に到着して外に出ると、冷たい空気に目が覚めました。
さて、市内まち歩き。
戦後復興によってそういった計画思想が導入されたのだろうと思いますが、広島市内は綺麗に碁盤の目に街区が並んでいますね。
市内を歩くと、他の都市部にもよく見られるようにアーケードがかかる歩行者専用道路があり、多くの来訪者によってにぎわっています。
広島市といえば原爆ドームのイメージが強いのですが、市内の繁華街にはそういった原爆の色はあまり見えません。
被爆都市としてのイメージは、広島のダークツーリズム的な一面を強める一方で、生活面には目立って表出してはいないようです。
広島の悲惨な歴史は、そのルーツにおいて共有されているものだとしても、単に悲劇的ではない生活空間は憐れまれる対象ではないのだろうと思いました。
そして、この観光のイメージはメディアを媒介して伝えられるのですが、それは実際とはかなり乖離した偏ったイメージとなることがしばしばあり、場合によっては一人歩きしたイメージが虚構的に立ち現れるのだと思います。
それはいわゆる本質と現象の対立に区分けられない、観光地を形成する第3局です(こういう議論は既にされているんだろうとも思いますが)。
観光客は、この第3局の虚構が貼り付けられた本質に思いをはせ、その本質を体験するためにメディアを媒介しない観光地へと赴くのでしょう。
観光地においてもその本質は現象するのですが、その現象は当然虚構とは一致しません。
私たち観光客はそれでも写真を撮り、新たな虚構を生産することに熱心に取り組むのですが、そこに現象するのは虚構に発展する様な面だけではありません。
様々に現象する観光地の本質は、虚構をきっかけに観光客に憧れの対象となるのですが、それはたとえば宮島の乾いた大鳥居の様に、現象は虚構化されない多様な面を観光客に体験させます。
そして、この観光地化を加速する極致に虚構化する場所性があるのだとすれば、場所を観光地化するというのはその虚構の前身となる様なイメージを恣意的に貼り付けることで開始されることになります。
すると、メディア媒体を介した観光地化に限らず、再開発等によって意図的に空間を観光地化するとき、それは場所の虚構を受肉化させること、つまりその受肉化した虚構が新たな場所として現象することになります。
本質はやがて過剰な虚構に取って代わられ、消え去り、そして無数の虚構が現象する空間が生産されていくのだろうと思われました。