本の庭

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東京・渋谷02

渋谷の桜丘がついに仮囲いに囲まれました。

 

以前にここに来た時にも、既に建物からは人が消え、退廃とした街並みだけが残され、通行人が通過するだけの死にかけた街だったのですが、仮囲いに囲われた夜の桜丘の街中は街灯が点々と光を放つだけで建物のどのフロアからも漏れ出てくる明かりがありません。細長く広がる街の死体の様でした。

 

仮囲いを一回り歩いて、この街からは妙なグロさが感じられました。

 

廃墟とはまた違う、殺人的グロさ。

 

ついこの前まで人が居て、生活をしていて、夜には明かりが点る、そんな街から突如光が消え失せたのです。

 

それは予告されたものであっても、自然に朽ちていく死ではなかった故に殺人的なのでしょう。

 

誰もいないまま暗闇に沈む建物は、真っ白な仮囲いに囲まれ夜の街に晒されます。

 

カメラを持って歩く人がちらほらいました。

 

街の死というのは一大事件ですから、当然私のようなヤジウマも集まるのでしょう。

 

こんな街の死に様は、東京の様な大都会に限定的なものなのだろうと思います。

 

と言うのも、地方都市や山村地域では死ぬことが許されぬままに懸命な治療が続けられています。

 

友人の一人が、九州の限界集落で暮しています。

 

国が地方活性化のために進める施策の一つである「地域おこし協力隊」事業の類の様です。

 

20~30代の若者が都会から地方に移住する現象はIJUターンと呼ばれていて、高齢化する中での地域への移住促進の活動や産業振興等、衰退する地域の活性化のためにもなります。

 

都会の大量生産大量消費の暮らし方に疑問を覚え、地方の暮らし方にあこがれを持つ若者は少なくないはずです。

 

そういった若者が都会とは違った地域の暮らし方を求めて、地域活性化大義名分を背負って地方に入り込んでいくのです。

 

けれど、地方地域の活性化は真に必要なのかという疑問も感じます。

 

大学院のゼミ合宿で、新潟の限界集落に行ったことがありました。

 

そのときは、滞在した集落の活性化をテーマに地域住民を集めて学生が進行役を務めるワークショップを行いました。

 

複数のテーブルに分かれて地域住民と学生が入り交じって席につき、集落の活性化に向けた意見を出し合う。

 

たいていの場合、その地域に特徴的な場所の観光地化や特産品等を売り出すようなアイデアが出てきて議論をすることになります。

 

私の着いたテーブルでもそういった議論がされましたが、それにしても答えありきの議論になっている印象がありました。

 

後で知ったのですが、同じ様なワークショップをその少し前に開催していたらしく、その時と同じ内容の議論になっているとのことでした。

 

意見を出し合い議論することに意味がある、とゼミの教授は話していましたが、このワークショップの様に、集落の死に方を考える機会がなく活性化することだけが目的とされたワークショップというものは官僚的な思考停止の様にも見えます。

 

同じ様に、地域を元気にしたいという地域おこし協力隊の前提にも、パターナリズムが潜むだけでなく、そのものに国家主義を持続させるための延命措置が内部化されている様に思えます。

 

そもそも地域の活性化が観光地化や地場産業の拡充といった地域外のターゲットに依存したものであれば、それは新自由主義の拡大に加担するということでもあるのです。

 

こうして、地方地域はバックヤードとして都市を支える都市-地方の格差関係に自ら組み入ることになります。

 

都会においては積極的に殺され、地方においては生き長らえることを強いられる。

 

街の死に様は、権力関係の鏡であるということでしょうか。

 

街の安楽死という議論も既にあるのかも知れないし、そこにも妙な力の影が見え隠れするのかも知れません。

 

それらは政治によって決められるのでしょうが、その末にある街の死に様には寄り添っていたいと思うのです。