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『ゴーン・ガール』(デヴィッド・フィンチャー、2014年)

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女優の新垣結衣さんが結婚されましたね。

ツイッターでは「#ガッキーロス」がトレンド入りして、一部では株価が下落するなんて話まで出ています。

芸能人の結婚や離婚がしばしばニュースになりますが、そういったプライベートがメディアに報じられてしまう人たちの結婚生活とはどんなものでしょうか。

デヴィッド・フィンチャー監督の『ゴーン・ガール』(2014年)は、こういった見られる人たちの結婚生活にまつわるサスペンスです。

彼ら彼女らがどういう暮らしを送っていたのか、それを想像する材料になるかもしれません。

※以下、ネタバレを含みます。

あらすじ

大まかにいえば、ロザムンド・パイク演じるエイミーが、レスリー・ディクソン演じる夫ニックの浮気を知り、そして復讐する、というものです。そして、その過激な復讐劇がこの映画の見どころです。

物語は2人の5年目の結婚記念日である7月5日の朝から始まります。ニックは双子の妹のマーゴのお店でお酒を少し飲んでから自宅に帰ると、家の様子が妙なことに気づきます。そして、妻エイミーの姿がない。

ニックは警察に通報し、失踪事件として捜査が始まる。そしてこのエイミーの失踪によって、彼女の復讐劇の幕が上がります。

ところで、この復讐劇と並行してしばしばエイミーが日記を書いているシーンと、その日記を引用した彼女の回想シーンが挿入されているのですが、そこではニックとエイミーの出会いから結婚生活、失踪に至るまでの変遷が描かれています。

そしてこの回想からエイミーの過去を知ると、その復讐劇を演出するエイミーの過激なキャラクター誕生の背景が見えてきます。

エイミーの両親は、エイミーが子どもの頃からヒットしているシリーズの児童文学小説を書いています。その人気シリーズのタイトルが、『アメイジング・エイミー』。

もちろんモデルになっているのはエイミーなのですが、エイミーよりも完璧なエイミーが描かれています。*1

小説のエイミーはチェロの天才なのですが、現実には10歳でやめていたり、小説のエイミーはバレーの代表メンバーですが、現実には選抜落ちしていたり。

もちろん、現実のエイミーにインスピレーションを受けて両親が書いたフィクションなのでそうなるのですが、そうして完璧に描かれたエイミーの口癖は、「何かやるなら完ぺきにやらなきゃ(If it's worth doing, it's worth doing bright!)」です。

両親の小説には要すれば両親の理想のエイミーが描かれていて、それだから現実のエイミーは負い目を感じていたのは明らかです。そうした特殊な環境がおそらくエイミーの過激なキャラクターを形成していったんだろうと思われます。

エイミーの完璧な復讐劇

では具体的に、復讐劇のなにがそんなに過激なのでしょうか。

大体予想がついているかもしれませんが、エイミーの失踪は計画されたものでした。エイミーは自宅に様々な状況証拠を周到に残していて、あたかもニックが自分を殺したかのように装います。

もっとすごいことには、エイミーは最後には自分も死んで、ニックを殺人犯に仕立て上げ、死刑送りにしようとします。

前記事に書いたのですが、鈴木いづみの短編小説「アイは死を超えない」と似たストーリーであることがよくわかります。ただし、その展開はやや異なります。

エイミーの計画通り、メディアは彼女の失踪事件を大きく取り上げます。また、失踪後に情報提供を求める記者会見でニックの素振りが素っ気ないことから、キャスターがニックのことを批判的に報じ、そうしてニックの妻殺しを疑うような批判的な世論が高まっていきます。

一方で、エイミーの計画の目的に気づいたニックは、敏腕弁護士を雇い、メディア戦略を駆使して世間のイメージ回復を画策します。

ニックはトーク番組に出演して、浮気の事実を認めて懺悔します。

ニックは本音でいえば、「ウソの暮らしが限界だったから」、妻が失踪した朝に離婚をいいだそうとしていました。だから、エイミーが失踪したときもニックは「救われた気がした」といいます。

ですが、テレビ番組でそんな本音を微塵もみせることなく、彼はこう懺悔します。

「エイミー、愛してる。君は誰よりもすばらしい。
僕は君を苦しませた。"お仕置き"が必要だ。
戻ってくれるなら、日々君への償いに生きよう。
君に誓ったような男になってみせる。
愛してる。戻ってきてくれ。」

この番組を見ていたエイミーは自殺を見送り、ニックとの復縁に動きます。

むろん、復縁というのは偽りの夫婦関係ということで、理想の夫婦をメディアの上でも再度偽造することだったのですが。それでもこの番組のおかげでニックの世間的な評判は回復の方向に向かいます。

そして失踪から30日後の朝、エイミーは報道陣が待ち構えるニックのもとに突如現れます。報道陣がカメラを抱えて集まってくるところで、エイミーはニックに歩み寄り、そのままハグをしてから倒れ込むのです。

ニックはといえば、「このくそアマが」とハグをするエイミーの耳元でささやくのですが、報道陣からは見えないように気を使っているように見えます。2人はカメラの前で、ようやく果たされた感動の再会を演じるのです。

生還したエイミーは「ミシシッピの奇跡」ともいわれ、2人は理想の夫婦として世間からもてはやされます。

ですが、世間が理想の夫婦像を2人に映し出すことは、ニックにとっては妻を裏切り浮気をするような「願い下げ男」に成りはてることも、妻と別れ家を出てていくことも許されず、その理想の家族を偽造し続けなければならなくなったことを意味しています。すなわちここで、エイミーはニックの浮気に対する復讐を果たすことになります。

それにしても、エイミーはここまで徹底してニックに復讐したかったのかといえば、おそらくそうではありません。

むろん、当初エイミーはニックの破滅を目論んでいたんですが、どういうわけかそういう復讐の色合いは終盤に向かうほど脱色されていきます。それよりも彼女が執着しているのは、世間体です。

そこで別の疑問が浮かびます。つまり、ここまで徹底して理想的夫婦像を偽造する理由は、いったい何なのでしょうか。

見られる人の日常

エイミーはメディアを介して自分のイメージを極めて巧みに作り出します。それは『アメイジング・エイミー』の小説の中でエイミーが「何かやるなら完璧にやらなきゃ」というように、徹底しています。

見られる人としてのエイミーは、そのイメージを気にするあまり、実態としての夫婦関係を犠牲にしているようにみえます。たぶん、メディアが入り込んだ生活において、見られる側が抱える日常生活の矛盾はこういうところに表出してくるのかもしれません。

なんですが、一方では彼女のもとを去りたいというニックほど、そもそもエイミーには実際の結婚生活に関心がないようにみえます。彼女はメディアがつくる理想的なイメージのために生きています。

だとすれば、彼女は結婚生活の日常を犠牲にしているわけではなくて、むしろイメージを作るという日常のために夫婦関係を利用している、ということです。そして、エイミーにとっては、そうやって互いに苦しめながらも幸せを装うことこそが「結婚生活」というものなようです。

そうであれば、やはり日常を犠牲にしなくてはならないのはニックの方です。これは彼が浮気をしたから、その罰としてそうしなくてはいけない、というのではありません。

そうではなくて、それはニックがエイミーのように自分を偽る女性から好かれようと装っている自分が好きだからなのではないでしょうか。ニックに威圧的に掴みかかられ「このクソ女が!」と罵られたとき、エイミーはこう応じます。

「あなたはクソ女と結婚した。
クソ女に好かれようと装ってた自分が好きなはず。
私はひるまない、クソ女だから。」

ニックは特に反駁することもなく、圧倒されたように立ち尽くします。ニック自身がエイミーのような女性に気に入られたいということに無自覚だったのかもしれません。

つまり、ニック自身も無自覚ながら見られる人としての自分を欲望しているということです。それゆえに、彼は日常を犠牲にするという選択をせざるを得ません。

そしてなにより、ニックは彼自身がどう見られたいかということをわかっていないようです。つまり、ニックはエイミーのように明確に理想像を持っているわけではないのです。

しいていえば、それは世間から好かれるという漠然としたものでしかありません。だから、ニックはエイミーのように手際よく行動に移すことができないのです。

映画の冒頭で横になるエミリーの後頭部が映され、ニックがその頭をなでるとエミリーが振り返るシーンがあります。そこではニックの声がこう語ります。

「妻のことを考える時、いつもその頭を思う。
愛らしい頭蓋骨を開いて、頭脳を解きほぐし、答えを知りたい。
結婚の基本的な問い。
"何を考えてる?"
"どう感じてる?"
"僕たちはどうしたんだ?"」

同じように、この映画の一番最後にも、横になるエイミーの後頭部をなでて、振り返るエイミーの頭にニックが手を置くシーンがあります。そこで、ニックの語りは冒頭の「結婚の基本的な問い」に加えて、こう問う。

「何を考えてる?
どう感じてる?
僕たちはどうしたんだ?
これからどうなる?」

ニックは偽りの夫婦、偽りの家族との暮らしを続けていかなければいけないのですが、そこに理想像があるわけではありません。だからニックは、これからどうなるのかわからないのです。

どうなるかわからないのだけど、世間で抱かれるイメージのために、演じ続けなければならない。おそらくこれこそが、メディアにまみれた見られる人の日常生活というものなのではないでしょうか。

ゴーン・ガール』、その先

ガッキーの結婚したいまの世の中には、『ゴーン・ガール』の話に描かれていないメディアがあります。つまり、SNSです。

鈴木いづみの小説にしても、『ゴーン・ガール』にしてもテレビがメディアツールを象徴しているのですが、ガッキーの結婚したいまは『ゴーン・ガール』の先にあって、メディアはテレビよりも相互に情報を交換するようになっています。

つまり、見る人もSNSを通して見られているし、見られる人もSNSでほかの人を見ている。

そうすると、見る人と見られる人が同一化するのがSNSのもたらした結果だったともいえます。だけど、それだけではありません。

実際にはSNSが見ることと見られることを二極化させていて、つまり見られる人がより見られて、見る人がより見ている、ということもあるのではないでしょうか。

ゴーン・ガール』の先には、メディアによって関係が錯綜して、関係によってメディアが錯綜している社会が存在しているんだろうと思われます。

*1:Amazing Amy は字幕で「完璧なエイミー」と訳されています。